Clinic Episode
当院の成り立ち
昭和初期、亡祖父 斎藤進が十全医院を開設しました。
今となっては定かではありませんが、戦前は千束通りにあったそうです。戦争中は軍医として北方の海へ赴いていたと聞いております。
戦後まもなく現在の浅草4丁目に十全医院を移設、以降は地域の皆様の診療や富士小学校の学校医など今で言う地域医療を行っておりました。祖父の死去により、前十全医院は40年前に閉院。
亡父 隆景(泰夫)も医師となり大学医局の人事で新潟県小出町に赴任。昭和54年新潟県六日町に斎藤脳神経外科、その後斎藤記念病院を開設。パワフルな父で地域医療に邁進、新潟県議会議員を5期勤めました。
私は新潟大学脳神経外科に入局後は主に北陸、東北、関東の三次救急病院で脳神経外科医として研鑽、経験を積んでまいりました。
脳卒中の患者さんが多く一度発症してしまうと後遺症が残り、場合によっては寝たきり状態となってしまうのをみて、予防の大切さを痛感する日々でした。平成29年に父が亡くなり、さて私は私のこれからの人生と今まで先輩方に教えていただいた技術や経験をどうお役に立てればよいかを考えておりました。
私は新潟大学脳神経外科に入局後は主に北陸、東北、関東の三次救急病院で脳神経外科医として研鑽、経験を積んでまいりました。
脳卒中の患者さんが多く一度発症してしまうと後遺症が残り、場合によっては寝たきり状態となってしまうのをみて、予防の大切さを痛感する日々でした。平成29年に父が亡くなり、さて私は私のこれからの人生と今まで先輩方に教えていただいた技術や経験をどうお役に立てればよいかを考えておりました。
こどもの頃から医者は身近にいて父も祖父も忙しく働いているのが日常で、時には患者さんに感謝される姿をみて子供ながらに誇らしくもあり、そうかと思うと何やら診療の事で落ち込んでる様も多々みてきました。
父のように大きな病院を建ててたくさんの人と関わるもよし、祖父のように町医者として手の届く範囲を診るもよし。私はといえば幼少時に漠然と祖父のような医者になりたいと思っていた事を思い出しました。
やるなら浅草のあの場所で、、、
もう一度『十全医院』として地域の皆様に信頼されるクリニックを始めたい、と強く思いました。40年も途絶えていたのでもう誰も覚えていないかもしれないけれど、思い入れのある屋号を引き継いで一から積み重ねていこうと。
もう一度『十全医院』として地域の皆様に信頼されるクリニックを始めたい、と強く思いました。40年も途絶えていたのでもう誰も覚えていないかもしれないけれど、思い入れのある屋号を引き継いで一から積み重ねていこうと。
さて開院して2週間ほど経ちましたが意外や意外、「十全さんのお孫さんかい?」「やっちゃん(父)とはよく遊んだんだよ」と声を掛けてくださる方がたくさんおられ、知らなかった祖父や父のエピソードを聞き嬉しいやら驚くやら。
かつてこの地に小さな医院があって祖父や祖母、父、叔母さんや御先祖様が奮闘していたんだと思うと身が引き締まります。
現在の当院です。
ここをあらためて地元にするべくまた皆様に信頼していただけるよう、日々丁寧に診療を重ねてまいります。
皆様、よろしくお願いいたします。
ここをあらためて地元にするべくまた皆様に信頼していただけるよう、日々丁寧に診療を重ねてまいります。
皆様、よろしくお願いいたします。